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施主の「感性」と設計者の「理念」が具現化された『三岸家住宅アトリエ』

2025.03.21

今月の3月14日は温かく天候にも恵まれ、月1回ほどの割合で行われている『三岸家住宅アトリエ』の特別公開日(LINEで要予約)に参観することができた。アクセスも良く、高田馬場から西武新宿線「鷺ノ宮」駅で下車。徒歩8分の閑静な住宅地に、戦前から91年間の歳月を経て、その健在ぶりを現地で見たときの感動はひとしおであった。

「三岸家アトリエ住宅」現在の南西外観と、いにしえの赤:クリムソンレーキ色した玄関扉から、南面の掃き出し窓を観る。外通路の地面はナチュラルな乱貼り仕上げとなっている。

▲「三岸家住宅アトリエ」現在の南西外観と、いにしえの赤クリムソンレーキ色した玄関扉から、南面の掃き出し窓を観る。外通路の地面はナチュラルな乱貼り仕上げとなっている。

 

「三岸家アトリエ住宅」(2025年)現在の平面図(出典:見学会リーフレットより)

▲「三岸家住宅アトリエ」(2025年)現在の平面図(出典:見学会リーフレットより)

 

「三岸家アトリエ住宅」左:現在の南面窓と螺旋階段をみる。右:螺旋階段を上り、アトリエ吹抜けを見下ろす。

▲「三岸家住宅アトリエ」左:現在の南面窓と螺旋階段をみる。右:螺旋階段を上り、アトリエ吹抜けを見下ろす。

 

登録有形文化財認定と、DOCOMOMO JAPANに選定

昭和9年(1934年)に竣工した「三岸家住宅アトリエ」は、2014年3月に国の登録有形文化財に認定され、2017年5月にDOCOMOMO JAPAN(1988年に設立された非営利団体で、近代建築の記録と保存を目的とする国際学術組織)に選定された。                           91歳になるこの建坪26坪ほどの小さなアトリエ兼住宅は、逐次部分的に補修を加えるも、さすがに経年劣化はいなめない。今後、大掛かりな改修工事が計画されているようで、しばらく見学ができなくなる時が来るようである。そのためか、かつてアトリエに展示してあった絵画作品は、全て北海道立三岸好太郎美術館へ送られてしまい、閑散とした内観風景であった。

 

■アーキテクト/ 山脇巖

設計はバウハウス出身のアーキテクト/ 山脇巖(1898~1987)は、わたしと同郷の長崎生れである。さらに、私が日藝美術学科(現:デザイン学科)在学時代には、教授として直接指導を受けた大恩師でもある。

山脇巖(1898~1987) デッサウ(旧:東ドイツ)からバウハウス留学帰国途中に英国とオランダに寄り、 オランダの建築家J.J.P.アウトと一緒にロッテルダムの事務所で撮った34歳頃のポートレート(1932/撮影:山脇道子)

▲山脇巖(1898~1987) デッサウ(旧:東ドイツ)からバウハウス留学帰国途中に英国とオランダに寄り、 オランダの建築家J.J.P.アウトと一緒にロッテルダムの事務所で撮った34歳頃のポートレート(1932/撮影:山脇道子)

 

■クライアントの感性と設計者の理念が具現化された木造モダニズム」の最高傑作

このアトリエ兼住宅は、施主の洋画家/三岸好太郎(1903〜1934)・節子(1905〜1999)夫妻のアトリエとして建築され、施主の「感性」と設計者の「理念」が具現化された『木造モダニズム建築』の最高傑作で、建築史的にも評価に値する建築である。

木造を骨格とした直方体の箱を組み合わせたバウハウス風ともいえるの構成で、竣工当時は南東面に900角ほどの格子状の枠の大きなカーテンウォールのはめ殺しと、一部通風換気を考慮しての突き出しのガラス窓が設けられていた。アトリエ内部は2層の吹き抜け(CH=4,530)となっている。

さらに施主/三岸好太郎のこだわりから、アトリエ内部には、当時としては珍しい鉄骨の螺旋階段を配し、空間にスパイラルのアクセントが象徴的だ。

竣工当時の外観 設計/山脇巖:「三岸家アトリエ住宅」(1934年10月竣工)*竣工写真(撮影 山脇巖)出典:山脇巖著『欅』(1942アトリヱ社)、他

▲竣工当時の外観 設計/山脇巖:「三岸家住宅アトリエ」(1934年10月竣工)*竣工写真(撮影 山脇巖)出典:山脇巖著『欅』(1942アトリヱ社)、他

竣工当時の内観 設計/山脇 巖:「三岸家アトリエ住宅」(1934年10月竣工) *竣工写真(撮影 山脇 巖)出典:山脇 巖 著『欅』(1942アトリヱ社)

▲竣工当時の内観 設計/山脇 巖:「三岸家住宅アトリエ」(1934年10月竣工) *竣工写真(撮影 山脇 巖)出典:山脇 巖 著『欅』(1942アトリヱ社)

「三岸家アトリエ住宅」(1934)竣工当時の1階・2階 平面図

▲「三岸家住宅アトリエ」(1934)竣工当時の1階・2階 平面図

このアトリエは、クライアントである洋画家/三岸好太郎「構想」のもとに、アーキテクト/山脇巌が「具現化」したものの、好太郎自身は完成を見ずに31歳の若さで、病で急逝している。その後、好太郎の妻:節子が受け継ぎ、竣工後は住居兼アトリエとして使用。一部水廻り等の増改築を加えつつ住み継がれた。現在の平面図と比較してもらえばわかる。

 

設計依頼の経緯構想段階でのやりとり

設計依頼となる発端は、1933年5月1日から銀座資生堂画廊で開催の「山脇道子バウハウス手織物個展」に着物と羽織姿で三岸好太郎・節子夫妻が訪問したことが、今後の道子の夫でもある山脇 巖との関りにも繋がっていく。そのことは、山脇 道子著「バウハウスと茶の湯」(1955/4/15新潮社)に紹介された内容からも想像がつく。

また、山脇巌は1942(昭和17)年8月に出版した著書『欅』(けやき)のなかにも、施主/三岸好太郎からの設計依頼の経緯や、構想段階におけるやりとりとして、木造の構造上の問題点や、三岸自身の内外装における仕上げ素材の拘り、外部の蓮池や芝庭の配置や・内部からの見えがかりとしての外構イメージ、さらにスケールメリットを考慮した予算配分など、三岸が亡くなる間際まで、互いに様々な打ち合わせ内容が5頁に渡って日記のように口語体でリアルに記されてある。

さらに三岸自身も自分で筆を執り、外観のイメージ案として、様々なスケッチを描いており、互いの価値観の共有を具体的に提案したものもあり、打合せは夜12時を回ることもしばしばであったようだ。

山脇巖 著『欅』ケヤキ(1942アトリヱ社)P-62~66 三岸好太郎氏の畵室

▲山脇巖 著『欅』ケヤキ(1942アトリヱ社)P-62~66 三岸好太郎氏の畵室

 

具現化されたバウハウス校舎のミニチュア版

そして、「具現化」されたこの貴重な建築は、いかにもバウハウスで学んできた山脇巖らしいもので、バウハウス校舎のミニチュア版のようにも見えるのである。

山脇が帰国後すぐに設計したこの建築は、ナチスに倒されたバウハウスの面影を少しでも残しておきたい・・・そんな心境にも駆り立てられる。

バウハウス・デッサウ校舎の外観(1930~32)オリジナルプリント 撮影:山脇巖 出典:日藝(日本大学藝術学部) 芸術資料館

▲バウハウス・デッサウ校舎の外観(1930~32)オリジナルプリント 撮影:山脇巖 出典:日藝(日本大学藝術学部) 芸術資料館

 

住まい手受け継ぐ深い絆

戦前から様々な状況を乗り越えて91歳となった「三岸家住宅アトリエ」は、一部増改築を加えた部分はあるものの、このように現存している戦前の『木造モダニズム建築』という意味では、たいへん貴重な建築作品といえる。

しかし、そこにはクライアントであり住まい手が代々受け継ぎ、娘さんの代まで継承されてきたその精神をも含め、深い思いと言い知れぬ愛着そのものであろうか。構想段階から設計そして施工の期間よりも、竣工時より住み続け生活してきた時間の方がはるかに永いことになるの。

少し大げさになるが、住む側と住まわれる建築との深い絆と並々ならぬ愛情、そしてそこに住み続ける強い覚悟のようなエネルギーを感じさせられ、感慨深い一日でもあった。

 

■余談ではあるが

今回たまたま、見学先にも案内として置かれていた、月刊カーサ ブルータス-4月号の特集で、【創刊300号記念】美しい住まいの教科書。一生に一度は見ておくべき名作住宅100のP-108に、059に掲載されており、帰りに地元の書店で早速購入した次第である。

 

■アーキテクト/山脇巖が30歳過ぎてのバウハウス留学から

「三岸家住宅アトリエ」の設計者であるアーキテクト/山脇巖(旧姓:藤田巖)は、山脇道子(1910~2000)と結婚後の1930年、ともにバウハウスに留学することができた。そこには裕福な美智子の実家からのサポート(道子の父親は裏千家の茶人)があってのことである。

そしてバウハウス留学から帰国後の1932年、バウハウスはナチスの台頭の圧迫により、無念にも1934年に24年目で幕を下ろし解散させられた。そのことも契機として山脇はデザインの啓蒙活動を始め、設計活動に併せ、日本大学藝術学部の教授職に就き、美術・デザイン教育にも従事し、日藝デザイン学科の基礎を築いてくれたことは、OBの私にとっても大きな誇りである。

今回「三岸家住宅アトリエ」の見学を通して、クライアントであった画家/三岸好太郎・節子に寄り添いながら、その「発想」と「構想」を生かしつつ、アーキテクト/山脇巖が設計に携わることの意味は何であったのかを考えさせられる。

それは、まさに車の両輪ではなかったのではなかろうか。互いに積極的な姿勢を受け入れながら想いを形にしていくこと。イメージを共有できること。互いに立場は違っても、創作力に関しては対等な立場として協奏しあえたことではなかったのではないかと思えて仕方ない。

想いを形にすることは、良き「伴走者」に巡り合えることかもしれない。依頼する側(クライアント)も、依頼される側(アーキテクトビルダー)も互いに高めあう関係が必要なのではないか。今回は「三岸住宅アトリエ」の見学会を通して、91年前にその創作活動をしているこだわりの強いクライアントと、この建築を手がけたバウハウス出身のアーキテクト/山脇巖とで築き上げてきた揺るぎない信頼関係があればこそ実現できたことでもある。その強いエネルギーが時間を超えて「モダニズム建築」の傑作として評価される所以のようにも思う。

 

■概要データ

・三岸アトリエ

・所在地:東京都中野区上鷺宮2-2-16  https://goo.gl/maps/mLjYKKXWvMtxN1477

・設計:山脇巌

・施工:永田建築事務所

・階数:地上2階

・構造:木造

・建築面積:88㎡(26.66坪)

・竣工年:1934年(昭和9年)/ 増築改修:1958年(昭和33年)

*現在管理:株式会社キーマン東京支社 新規事業プロジェクト

*レンタルスタジオ「アトリエM」の利用詳細→ https://www.leia.biz/

*建物の見学は現在随時受け付けている。問い合わせ→info@leia.biz

 

■参考文献

・「欅」山脇巖(著)アトリヱ社1942/8/15

・「バウハウスと茶の湯」山脇道子(著)新潮社1955/4/15

・「バウハウスへの想い デザインからアトリエまで」(北海道立三岸好太郎美術館)1990年

・「中野を語る建物たち」(中野区教育委員会)2011年

・「住まいの再発見 世界と日本の珠玉の住宅76」(一財)住総研 住宅資料研究社2017/2/15

・「開校100年きたれ、バウハウス-造形教育の基礎-」東京ステーションギャラリー

展覧会カタログ2020/7/17~9/6

・「教養としての西洋建築」国広ジョージ (著) 2024/5/1

・三岸アトリエ公式サイト:https://www.leia.biz/

・一宮市三岸節子記念美術館:http://s-migishi.com/

・北海道立三岸好太郎美術館:https://artmuseum.pref.hokkaido.lg.jp/outline/mkb/

・三岸アトリエの窓、変化と継承:https://madoken.jp/series/10821/

・SPIRIT×DESIGN「2021年の都市型住宅考 住宅のプロダクト化はバウハウスに始まった」

(Asahi Kasei Homes Corporation)                        https://www.asahi-kasei.co.jp/hebel/spirit_design/study/15-toshi01.html

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